1951年プロ野球よもや話その3
『ワシらのカープの樽募金じゃ~』
前年同様、この年も資金・経営難で(給料・合宿費・遠征費も払えず)球団社長・球団代表(代理)、後援会・会長(代理)がセリーグ連盟に呼び出され
『プロ野球は金が無い者がやるものではない』
『早急に身売りしなさい』・・(こらえてつかーさい・・)
と厳しく叱責を受け一時は大洋との合併が決まったが、資金集めの後援会構想を発表し撤回した。監督の石本は采配を助監督の白石勝巳に任し自身は(資金調達の為)県内各地に球団存続の為の資金調達の必要性を訴えた。
その後、正式に後援会を発足しその際には地道な説法が実り発足時には当時のお金で400万円(現在の価格で約6500万円)が集まった。
そして球場にこも樽を設置。原爆投下の被害を受けた県民が復興のシンボルとして身銭を切ってカープに寄付した。これが広島球団の歴史で避けては通れない
『樽募金である』(※または『昭和の樽募金』)
これらのお金により球団の危機を乗り越え更に1957年には地元財界のサポートもあり広島市民球場が完成した。
日本ワールドシリーズ 第4戦 後楽園球場
『天の恵みで逆襲なるか?』鶴岡(山本)南海
雨で順延となり3連敗中で後のないホークスにとってどう影響するのか・
迎えた注目の第4戦・・巨人は2度のノーヒットノーランを達成している
中尾碩志が先発。対する南海は入団2年目の2桁勝利で優勝に貢献した
服部武夫との投げ合い・・南海打線が3回に爆発!1死2・3塁で中尾は降板・
代わって別所が登板。相性が悪かった別所から蔭山の2点タイムリーでシリーズ
初の先制点をもぎ取った。更に飯田徳治のタイムリー等で一気に4点を先制。
援護を受け服部は3回から8回まで好調巨人打線を完璧の無安打に抑える。
しかし迎えた9回無死1・2塁から樋笠一夫に手痛い3ランを浴び
柚木にマウンドを譲った。その柚木が3人をピシャリと抑えようやく
南海ホークス・シリーズ初勝利となった・・
しかしシリーズ第5戦に敗れ大阪球場のファンに雄姿を見せる事が出来なかった
『親分~っ百万ドルの内野陣よりワシら悲しんドル~』