#104 阿波野秀幸
ROOKIE CARD
思い出の猛牛戦士
近鉄在籍(1987-1994)
『トレンディエース・グローリー阿波野』
※ABC安部憲幸氏(アベロク)命名
1986年亜細亜大学からドラ1で近鉄入団。これで近鉄球団として1980年代の指名が石本から始まり7年連続投手が1位指名となった。この後も88年米崎を除き野茂英雄まで投手指名が続いた。※81年金村は近鉄投手指名で入団し入団後野手に登録された。ちなみに80年~04年までに米崎・福留・坂口以外同期全員投手を獲得した。同級生には佐藤和弘がいる。(パンチ)大学時代は監督に先輩の左腕山本和行氏(阪神)を手本に指導を受けたそうだ。元々在京の球団希望で巨人・大洋を希望していた。実際ドラフト直後会見の様子を見た時に凄く硬い表情の阿波野を見た時、前年ドラフト1位の桧山が『近鉄なんて1億積まれても行かない!』と豪語した経緯があり(結局鳴かず飛ばず・・)『ブルータス・お前もか!』と学生だった私は思った・・よく言われる話だが関東の人間からすると『近鉄』って何屋さん?って思う人が多かったと言う。特にセリーグの人気選手や若い選手が70~80年代等はパリーグに移籍する事は『島流し』に近い感覚だったかもしれない・・巨人・定岡正二は近鉄移籍話が持ち上がると『近鉄に行くくらいならユニホームを脱ぐ』と言い本当に引退した。。兄弟から色々聞き過ぎたんかな?(兄は南海在籍)近鉄は日本一の私鉄で資金も豊富(ただし超シブチン)で安心して野球が出来る環境等を強調し口説き落とした・・と言うかこの当時は岡本伊三監督(内閣)の手腕は素晴らしかった。デービス・オグリビー・村上・小野・阿波野と獲得し石本配置換えで再生しトレードで新井・淡口などを補強した。そして仰木彬氏へのお膳立てしてフロントへ入った。ルーキーの時に藤井寺球場に『白のプレリュード』に乗った阿波野を良く見かけた。それまでの野球選手はパンチパーマで借金取りみたいにグラサン・ネックレス・セカンドバック姿で球場入りする選手のがスタイルだった。サインを貰おうとすればオーラがあって怖かった・・幸運な事に球場に入る事が許される事が多かった為、サイン等が貰えたのだがどう見ても選手やコーチじゃないセカンドバックを持ったおっちゃんがロッカーやサロンにいたのが不思議だった。。のちに金村義明氏が『借金取りが出入りしていた・・』と述べていたので『アーッ』と納得した(笑)またまた話がそれました・・ホンマすいません・・
この時代あたりから『新人類』だの『トレンディ』だのと言われだしおしゃれな選手が増えだした・その筆頭が『近鉄・阿波野』『日ハム・西崎』だった。『トレンディエース』等と言われパリーグを盛り上げた。阿波野・西崎とも15勝を挙げどちらが獲得してもおかしくない成績だったが阿波野が『新人王』を獲得した。近鉄では徳久利明・大石大二郎に次いで3人目の受賞となった。(投手では2人目)その後も先発の柱として活躍。87年15勝・88年15勝・89年19勝と勝つが89年以外は負け数も多かった。やはり『エースは貯金が出来てナンボ!』と個人的に思う。負けは3試合に1度すなわち15勝したら負けは5敗までにしなければ真のエースとは言えない気がする・・(87・88年共に12敗)89年は素晴らしい活躍だった・・その後は近鉄ファンならご存知な出来事『10・19』翌年の優勝となるがこの辺の説明は私より好きな方が多いと思うので止めときます(笑)
90年8球団から指名を受けた『野茂英雄』が入団しこれで投手層が厚くなり『うわーっ当分近鉄の時代ですがなー』と思った翌シーズン・・阿波野が『伊原・片平西武の風神雷神』が待ったをかけた。『あの牽制球はボークじゃないの?』と審判に釘を刺した。それにより『んじゃ~ボークね!』とボークを取られるケースが増え、リズムとペースを乱されあの躍動感あふれるフォームの阿波野は近鉄で蘇る事は無かった。で、話は全然飛ぶが高校時代の同級生に野球部の『片平君』がいてそのオジサンが『片平晋作』であった。よく冗談で『いらん事言わんでええねん!』『そやから一本足にしても打たれへんで清原に一塁とられんねん!』っていつも言ってたのを思い出した・・(笑)
その後、巨人・横浜へ渡りドラフトで希望した球団でプレーする事が出来た。近鉄で経験出来なかった『日本一』を98年に経験するが、その時の監督は近鉄時代の師匠・権藤博監督であった。その後、巨人・横浜のコーチを務めた。彼の右バッターへのインコースへ投げた『クロスファイヤー』が今も脳裏に焼き付いている。