◆選手名

105 高村祐 ROOKIE

                     #105高村祐

ROOKIECARD

思い出の猛牛戦士

近鉄在籍(1992-2004)

『スマイリー高村・・実は・・』

1991年ドラフト1位で法政大学より入団。同期では2位江坂政明・3位トルネード・品田操士・4位に中村紀洋等がいる。法政大学と言えば近鉄創設期のメンバー苅田久徳・関根潤三・根本陸夫・や森下重好・新井宏昌等の先輩が多い大学である。個人的な記憶で申し訳ないが当時ドラフトの目玉は『若田部・田口・萩原誠』だった様な気がする・・その頃の『週刊ベースボ―ル』を熟読して高村祐と言う男を思い出した!『あーあ、あの‥』そう、この当時は(1980年代中頃)毎年の様にアイドルが現れ新しいアイドルに敗れて去って行く時代・・甲子園では蔦監督擁する池田高校に敗れたものの準優勝・この頃の投球フォームはセットから右足に体重を乗せて投げるフォームだった。で、なぜ思い出したかと言うとこの頃は『漫画大甲子園』の様に 横浜(愛甲)が早稲田(荒木)を破り報徳(金村)が全国制覇。かと思えば池田高校(畠山)が出てきて桑田・清原が登場した。このメンツの中では普通だったからである。顔だちもそうだが『純朴な栃木の高校生‥』的な感じの子だったので逆に印象的であった・・その投手が何と我が近鉄に入団してくれたのである・・ドラフトで有名なエピソードだが仰木監督が『この子本当にウチが単独で獲れるのか?』と言った話である・・この年はダイエー若田部との新人王争いを制して野茂英雄以来の新人王の誕生だった。キャンプでは皆川コーチにキレイなフォームだが威圧感が無くスタミナも無い・・と指摘を受けていた。それらを跳ね除け1軍の切符を掴み取った・・

躍動感溢れるピッチングは観ているものを引き付け150キロ近いストレートとコントロールが良いので決まれば気持ちが良い投げっぷりだったが、5回までパーフェクトピッチで期待すれば急遽乱れ手痛い一発に沈む光景が多く見られた。野茂英雄が渡米後、右のエースとして期待され3年連続の開幕投手を務めた。(1996-1998)3年以上務めたのは近鉄では武智文雄(田中)鈴木啓示・阿波野秀幸に次いで4人目の快挙であった。開幕で連勝したのは鈴木啓示・村田辰美の3人だけなのである。(共に55年間で)プライベートな話題なのであまり語らないが近鉄在籍時は実はご近所さんだったのである。イメージはいつも外車の黒い四駆を洗車していたイメージがあるが声を掛けるといつもにこやかに対応してくれ本当に近所のお兄さんって感じだった・・

04年の球団存続の署名運動では当時お腹の大きかった奥さんが一生懸命になっていた事を思い出す。私も300名近く集めたが願いは叶わなかった・・暑い中、試合前に署名をお願いする選手の姿を何度見た事か・・ストの日には急遽藤井寺球場でサイン会が行われ一番最後までサインを書いていたのが高村だった・・普段はにこやかだがマウンドに立つと性格が変わる・・『強心臓で頑固』である。(※本人曰く・・)珍プレー好プレーでロッテ戦ランナー2・3塁で『的山哲ちゃん』が後逸してホーム上で高村がグラブを投げつけその隙に2塁ランナーも本塁に突入!グラブをはめていなかった為、的山が送球出来ず2者生還・・って事がありましたなー・・

でも高村が投げた時って同期の『中村紀洋の援護射撃』がよく見られた。優勝年に観戦したが日ハム井出先頭打者初球本塁打を浴び『超~スミ1』で敗戦投手に試合開始直後の『初球被弾敗戦投手』は史上初だった・・

この年リーグ優勝を成し遂げるが自身は5勝9敗だった・・日本シリーズのチケットを頂いたのだが(第2戦)登板機会が無く複雑な気持ちになった。2003年6月7日対西武戦・1回近鉄が4点先制し楽勝ムードかと思った矢先西武カブレラに同点満塁弾をレフト最上段のまだ上の照明に直撃したあたりを打たれた事があった。。ピンポン玉の様に飛んで行った・・

その後大塚が移籍した事でクローザーを務め9セーブを挙げた。2004年球団本拠地最終戦・55年間の最後の先発のマウンドを託されたのは『高村祐』だった。。久々に観た様な気がした。幸いにもバックネット裏で猛牛達の最後の雄姿を拝む事が出来た・・1979年日本シリーズ第7戦・1989リーグ優勝試合・鈴木啓示300勝・野茂英雄初先発・北川優勝優勝本塁打・・すべて近鉄を愛して来た者へのご褒美か?とさえ思えた・・でも『そんなご褒美は返上するから近鉄よ無くならんといてくれ・・夢であってくれ・・ホンマに・・!!』と何度も思った・・しかし無情にもその時が訪れ星野のサヨナラ安打でホントの『サヨナラ』となった。

試合が終わり一人として帰らないファンに対しウグイス嬢の『大野さん』のありがとうございました・・としか言えない声が寂しかった・・ドームの照明が消えても帰らなかった・・いや『帰れなかったのである・・』この空気と言うかこのまま時間が止まってくれ!頼むから・・と言う気持ちになった・・その日から未だに応援できる球団は見つからないのである・・あの日のまま彷徨っている・・高村さんが東北行きが決まり高村祐のファンでいようと思ったが一度だけマウンドに立っただけで引退した・・もしあのまま現役を続けていたらもう少し熱が入ったのかもしれない・・

楽天は近鉄出身選手が居なくなり震災を乗り越え日本一になりその絆は完全に『東北の子』となり大阪にある紛い物のバファローズは最初に手を出してもどつかれたらどつき返す根性がない『シュン太郎』で、合併しても神戸のお上品な所だけ引き継ぎ『猛牛の粗々しさ・豪快さが無く』負けても最後に一発だけでもどつき返す根性のある選手がいないのである。。今のバファローズは猛牛軍団ではなく乳牛の群れである。

高村氏の話に戻し引退後は楽天コーチに就任し則本らを指導し1軍へ送り出しその手腕を買われ1軍投手コーチ・またソフトバンクでも活躍している。個人的には近鉄在籍で100勝して欲しかったが残念である。あの左足をバネの様に高く蹴り上げ綺麗でテンポの良いフォームは今でも忘れられない。高村の成績近鉄生え抜きでは鈴木啓示317勝・武智文雄100勝に次いで3番目の勝ち星である。(83勝)近鉄在籍期間中の選手も含めれば1位鈴木啓示・2位佐々木宏一郎・3位武智文雄・4位清俊彦に次いで5番目の成績を残している。近鉄と言えば『いてまえ打線』だが調子の良い時は地を這う様な低めのストレートが決まり、また変化球も冴え渡って三振の山を築くが急に崩れ痛打を浴びる・・豪快なピッチングでまさに『いてまえ投法』だった・高村祐と言う選手は本当に近鉄らしい投手だった。