◆選手名

109 鈴木貴久 ROOKIE

#109鈴木貴久

ROOKIE CARD

 

思い出の猛牛戦

近鉄在籍(1985-2000)

『北海の荒熊・鈴木貴久』

1984年ドラフト5位で入団。この年1位が佐々木修・2位吉田剛・3位山崎慎太郎・4位山下和彦とのちに近鉄を支える選手が名を列ねた。特にドラ4の山下とは仲が良く(山下が1つ上)山下が『おい!クマ!』と呼ぶと『なんすか?オヤジ!』と呼び合う仲だった。山下は藤井寺球場のヘビを(マムシ)捕まえて食べた事から『マムシパワーの山下!』と呼ばれ応援された。(ちなみに応援歌はドラえもん)87年当時は2人は『アニマル・コンビ』と呼ばれていた。生まれた時鈴木は2900グラムしかなかったそうだが、プロに入る頃には胸囲110センチ・握力左右70キロ以上とまさに『道産子パワーだ!タカヒサ!』だったのである。社会人からの入団で即戦力として期待され2年目には9本塁打を放ち『左殺し』や『西武キラー』と呼ばれた。中西太の秘蔵っ子として『中西道場』に入門し更にバッティング技術を磨いた。子供の頃からスキーで鍛えた強靭な足腰で粘りのあるバッティングが買われていたが入団当初は守備と走塁が課題だった。徐々に淡口に代わって出場機会が増え名前が知られる事になる。入団して直ぐに知人から50万円でベンツを譲って貰い早くも『ベンツのオーナー』になった事も当時話題となった。88年・89年とブライアントに次ぐ長距離砲と言えば『鈴木貴久』だった。ここで一本欲しい時にはどうにかしてくれる選手であった。顔も近鉄顔で他の球団のユニフォームが似合わないと思える程近鉄だった。鈴木と言えば10・19の勝ち越しのスライディングだが、あの時満身創痍の体で肘を痛めていたにもかかわらずのスライディングだった。師匠中西太と抱きあったシーンは感動的だったが太っさん曰く『あの大きな体に抱きつかれたら支えきれんで男二人トドみたいにゴロゴロ転がってしまった』実は鈴木の後ろに安達も抱きつき太っさんは支えきれずに転倒した。太っさんはこの試合連戦での疲れと体調を崩していた中で審判の判定に苛立ち真喜志の見送ったボールがストライクの判定でベンチを飛び出し鼻をかみながら強い口調で詰めより『太っさん、あかんて!退場になるって!』と思った瞬間、後ろから止めた人物がいた。『石本だった』85,86年と脚光を浴びた選手はベンチで戦況を伺う機会が増えていた。『あの状況でおやっさんが退場になったら・』と思い割って入ったという。それだけ、両軍緊迫した状況の中で戦っていた。第一試合を薄氷を踏む思いで辛くも勝ったインターバルで内緒でベンチに入っていた金村に『泣いとってもしょうーがないがな!』と言って激を飛ばしている場面を見て太っさんは凄いなーっと感じた。。

でも当時から『なんでロッテはそんなに必死になってんねん!』と思っていた。第一試合はこの年の奪三振王【現在〇〇〇】の小川博が5回までノーヒットで投げれば愛甲が打ったり・・園川が好投すれば岡部が打ったり・・(岡部・・マジかって・・PL出やけど通算22本のうちの1本・・・出会い頭の交通事故やった。。)そらーもう、親の仇の如く挑んで来はりましたわ・・西武球場でレオの選手が戦況を見ていて『今年は近鉄に勝たせてあげよう‥』と思う選手が出るほどやったのに・ミスターロッテはそんな気はみじんも無く超ヒール役に徹していたなぁ・・・まさに『川崎劇場』」だった。。後年にも違うチームをイジメて『ロッテは秋から開幕か』と当時言われていた。近鉄は翌年見事リベンジしリーグ優勝!!日本シリーズでは第一戦で斎藤から起死回生の同点アーチを放った。常にチームが苦しい時に突破口を開いてくれる選手だった。。

ドームに移転し『最初のホームランは誰が打つ?』と言うイベントがあったと思うが公式戦第1号を放ったのは鈴木貴久だった。。確かロッテ戦で榎?から左中間に放り込んだ記憶がある。レフトに記念プレート・ライトにはタフィの放った55号本塁打のプレートがあった。。ドーム時代が到来しスモールベースボールが浸透する中・大村等の若手が伸び成績も振るわず惜しまれつつも2000年に引退。2軍コーチに就任し『ノリの様な選手を育てたい!』と話し『中西道場』を彷彿させる熱血振りで指導し大西宏明等を鍛えた。しかしその志半ばの2004年5月16日に急死し帰らぬ人となった。。。享年40歳だった

そして約一か月後の6月13日にオリックスとの合併が報道された・・この日観戦していたが(確か・・記者が慌ただしかったのを覚えている・・)何が何だか分からなかった・・まさか『近鉄が‥と頭が真っ白になった

大阪ドームのホーム最終戦は『星野のまさにサヨナラ勝ちで幕を閉じた』しかしまだ弟分のウェスタン・リーグ優勝が懸かった大一番が藤井寺で残っていた。。そう鈴木貴久の愛弟子たちが最後の望みを託して近鉄球団として一試合でも長くユニホームを着ていたい・・貴久コーチに届けたい!一心で頑張ったが検討空しくこの日が球団最後の試合となった・・大西・山下らは泣きに泣いた・・私自身これが近鉄球団として観る最後の雄姿と思うと堪える事は出来なかった・・豪快なバッティングでファンを魅了した鈴木貴久はあっという間に駆け抜けていったが、猛牛戦士の中でも数少ない『和製・大砲だった』球団消滅と共に去って行った『北海の荒熊は気は優しく口数は少なくシャイな男だったがここ一番では頼れる男であった』絶対に忘れる事の出来ない猛牛戦士である・・