◆選手名

140 吉井理人 ROOKIE

#140 吉井理人 

ROOKIE CARD

裏面タイプA

裏面の説明がタイプAでは

昨年・さくねん』になっている。

裏面タイプB

昨季・さくき』になっている。

 

思い出の猛牛戦士

近鉄在籍(1984-1994) 

『和製・デニス・エカズリー』

名門・和歌山箕島高校からドラフト2位で入団。入団当初のニックネームが『若様』だった。1位が小野和義・3位に村上隆行・4位に光山英和・5位に安達俊也が同期で入団し1軍で活躍した当たり年である。一年後輩に同郷の『山崎慎太郎』がいる。山崎とは良きライバルでもあり仲も良かった。ある日山崎の背番号が88年の活躍により(13勝)39⇒15に軽くなった。吉井は36番が気に入っていたのに球団が山崎だけ軽くしたら吉井がひがむと考え『11』に変更された。(36はヤクルトから移籍して来た後関が欲しがったと言う説もある)しかし11番は1年だけで90年には野茂が社会人から付けていた『11』を希望した事から直ぐに譲った・・で、21番になった・・・『21』は高校の先輩・東尾さんが付けていた背番号なので前からつけたかったと述べている。しゃべり方は気の良い兄ちゃんだが結構『キレやすい』性格で藤井寺の壁に穴が空いていて、これは『吉井が殴った跡です・・』と聞いた事がある。また仰木監督の起用法に納得がいかず監督室の簡易ロッカーを背負い投げした事もあったと言う・・有名な『10・19』や日本シリーズの起用法で仰木監督と権藤コーチとの間に溝が出来た事は有名な話。後年メジャー時代に仰木から食事に誘われ、てっきり嫌われていたと思っていたら『お前は怒ってる方が良いピッチングをするからワザと怒らせていた』聞かされた。メジャーが大好きで試合前には投手陣たちでBS放送でメジャー観戦していたと言う。同僚の『野茂英雄』も90年に日米野球で対戦し打たれて以来、メジャーに興味があったという・・同じクローザーだったメジャー球団アスレチックスのデニス・エカズリーをまねて長髪でひげを蓄えていた時期があった。

ヤクルトを経て念願のメジャーへ移籍する。日本人としてFA権を行使してメジャー移籍した第1号。他にも日本人記録を幾つか達成している。①初登板・初先発で初勝利。②日本人初のポストシーズン開幕投手。③日本人初の盗塁を記録・・ランディ・ジョンソンからヒットを打ちノーアウトで出塁・エンドランのサインが出て1塁コーチャー(元阪急のウィリアムス)に確認すると『サイン出てるねぇ・・』と言われ2塁へ走ったが打者は空振りし完全にアウトのタイミングだったがキャッチャーがビックリして投げ損ねてセーフになったと言うエピーソードがあった。ピアザに『お前ピアノでも担いで走ってたのか?』と言われたそうだ・・2003年に日本球界に復帰。オリックス・ロッテと渡り2007年引退した。ヤクルトやメジャーファンからすると吉井理人と言えばスターターのイメージが強いが近鉄ファンにとっては『抑えの切り札吉井』である。球団が消滅した際にトム・ラソーダの言葉を引用し『俺たちの体にはバファローズ・レッドの血が流れているんだ!』とい言った事が印象的だった。近鉄球団の歴史に残る名ストッパーである。