1950年プロ野球よもや話
『プロ野球2リーグ制初の日本シリーズ開催!!』
そもそも日本なのに「ワールドシリーズ」って何・・って話になりますがそれはさておき、戦後2リーグ制になり、年間を通して勝ち抜いたセ・パ両リーグ王者が激突する初のシリーズ・・
しかし当時はまだまだ大学野球が全盛期で「神聖な野球で飯を食っている」といった考えの人や入場料が高い等の理由から6割程度の観客しか入らなかった・・
そして最大の理由は、毎日・松竹の引き抜き合戦にあった。。当初2リーグ制発足の際、阪神はパリーグに参入予定だった。しかし巨人とのドル箱シリーズに目が眩み、セリーグに寝返った・・(西本幸雄氏談)約束を破ったのだから引き抜いても構わない(阪神から)という流れになり主力の若林・別当・土井垣呉・本堂が入団・一方、松竹も大映から大岡・小鶴・金山等を入団させ 2位南海に15ゲーム差をつけての優勝!判官びいきが多い日本人特有の『強過ぎる』=『憎たらしい』に繋がった。そしてそのシワ寄せが新規参入のチームにのしかかった。
2リーグ制になり一気に球団が増えプロ野球選手が絶対数で不足した為、学生や元プロ野球選手等を入団させたチームもあった。
当然資金力のある、または以前から在る球団は強かった。初年度から2度の延長戦・2度のサヨナラゲームと劇的さや野球の醍醐味が味わえた反面、勝敗を分けたのは大事な場面でのミスだった。。
今シリーズはフランチャイズ制では無かった為、神宮・甲子園・後楽園と移動が大変なシリーズだった。
1950年 第1回 日本ワールドシリーズ(神宮)
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このシーズンセリーグは11月に入ってもペナントレースが開催され140試合すべてを消化出来ない球団があったが順位が確定していた為、11月20日で打ち切った。
「そりゃ8球団もあればそうなるわな・・・」
開催日が11月22日って・・今と違い温暖化が進んでいない時代・・
「寒いっちゅーねん。。」と選手の声が聞こえてきそうな季節・・
しかも第1戦の先発を志願したのは当時42歳のベテラン 若林忠志氏で今の42歳とは訳が違う。下手したらお爺ちゃん的な年齢だったかも知れない。。
初のシリーズに日米野球で来日中の『F・オドール監督とジョーディマジオ』が始球式に登場!キャッチャーはマーカット少将が務めた。
ゲームはシーズンたった4勝若林の「七色の変化球」が決まり、また女房役の土井垣のリードも冴え延長12回を161球の2失点で投げ抜き完投勝利をおさめた(先頭打者の金山に投げる初球を決めるのに5日間かかった)
『5日って・ほんまかいなーっ七色もあるからやがな』『子供やったらえんぴつ5色でも迷うで・・』
で、なんで神宮?と言う事になりますが当時はフランチャイズが無い為持ち回りで開催されていた様です。(代わりベンタンってやつですわ・・)