1953年プロ野球よもや話その2

チョイとバイトで野球やってます

戦後野球の本場からメジャーリーガーが日本野球界で活躍していた事をご存じだろうか・・1950年からの朝鮮戦争が1953年に休戦協定が成立しその間日本の各地に沢山の米兵が駐留していた。そんな中きっと兵隊さんの中に『暇な野球経験者がいるんじゃないかい?‥』と考えた球団があった。西鉄と毎日だが52年に西鉄が2選手と契約した。ここでは53年に入団した毎日の両外国人選手について語る。なぜか・・それまでの米軍野球出身者とは別物の・アメリカ・大リーグの経験者が入団したからである。東京・立川基地から通っていた『レオ・カイリー』である。ニュージャージー出身のボストン所属の投手で1951年にメジャー昇格した年に7勝を挙げた。その翌年に兵役につき来日。このカイリーこそが『日本プロ野球で最初のメジャー出身の外国人選手』であった。。185センチと大柄な体で左から繰り出される球は多彩でツーシームやフォーシーム(打者の証言で素直な球はなくすべて変化していた)スクリューなどを投げた。しかし本業は兵隊で野球一本と言う訳には行かずナイトゲームのみ出場が認められフットと共に『アルバイト契約』で入団した。8月8日の西鉄戦に救援でデビュー。中西太に一発を浴びるがその後は『入団から6連勝をマーク』この記録は2015年から在籍のバンデン・ハークが更新するまで長年に渡り破られなかった。しかし9月に除隊命令が出た為、毎日を退団し帰国の途に着いた。その後、『進駐軍選手のアルバイト登板禁止』の通達がコミッショナーより出され禁止となった。カイリー曰く『日本の野球はアメリカのAかAAレベル』と言い残して帰国した。あれから約65年日本は『ベースボール』ではなく『野球』を極め間違いなく距離は縮まった。

また話がそれるがサッカーも基礎となる日本のスタイルを磨くべきである!Jリーグのレベルの底上げが出来ていない・イタリアの『カテナチオ』の様な伝統的なフォーメーション・スタイルがない・・だから代表監督が南米・ヨーロッパ・日本人etc新しく就任した監督に振り回され方針やスタイルがコロコロ変わりそれまで招集されると思い代表監督の意に適う様に練習してきた選手にお声が掛からないと言う事も少なくない・・監督ではなく日本のスタイルを確立し、日本の蹴球』を極めそのスタイルに合った監督を呼ぶべきだと個人的に思う。日本で活躍出来ていないレベルのものが海外移籍しその技術やスタイルを吸収しても何時まで経ってもブラジル・ドイツ・アルゼンチン等と互角に戦える日は来ないと思う。ワールドカップ予選でマスコミが騒いでいるレベルでは駄目だと思う。決勝リーグの常連となりブラジル・ドイツがライバルと認めてくれるまではかなりの歳月が必要とされる・・残念ながらクラブ・カップなら100年経ってもバルサやレアル』と戦えるチームは出て来ないだろう・・その為には海外に目を向けるよりまずは日本のスタイルを作り磨くべきだと思う。。いつまで経っても強豪国には追い付けない・・野球は日本の野球を極めたからこそ世界の強豪・世界レベルの選手を輩出出来ていると思う。(野球と関係なかった・・

1953年度日本ワールドシリーズ 指定席

1953-1-1

1953-1-2

南海有利に思われたこの年のシリーズだったが4戦終わって巨人の2勝1敗1引き分けでフタを開ければ巨人が優位に立っていた。そして迎えた第5戦。勝てば3連覇に大手が掛かる大事な試合・・ここでマウンドを託されたのが巨人入谷だった。一方 タイに持ち込みたい南海はエース柚木をマウンドへおくった。第4戦が終わり直ぐにその足で夜行電車に乗り大阪に着く迄列車で眠ると言う過密スケジュールで第5戦に備えた。巨人先発はシリーズ初先発の入谷正典。敵地大阪出身でこの年ブレイクし11勝を挙げシリーズ先発に抜擢された。この試合自慢の『百万ドルの内野陣』が崩壊した。初回・与那嶺の右中間2塁打で先制のチャンス。そしてリードが大きかった与那嶺を刺そうと牽制が悪送球・・その後千葉の犠牲フライで先制されると4回岡本伊三美の悪送球で1者生還・・8回には与那嶺の打球を堀井が後逸し3塁打にするとまたしても千葉に犠牲フライを浴び追加点・・柚木の好投が報われず終わってみれば入谷のシリーズ初先発・初勝利・初完封と言う完璧な内容でホークス打線を牛耳った。。しかしこの入谷は5年でユニホームを脱いでいる。。この勝利でホークスの夢途絶えるか・・第6戦は甲子園球場に舞台を移す事になる。ちなみにこの第6戦の観客動員数がたったの6,346人だった。。

んーまぁ、昔の日生よりかは多いけどな・・

・・でも日本シリーズか・・