1955年プロ野球よもや話その3

『怪童・中西 戦後初の3冠王誕生なるか』

1952年西鉄へ入団するとルーキー年から即戦力として活躍し打率2割8分・12本塁打・65打点を記録し新人王に輝いた。翌年には最年少でトリプルスリーを達成し初の本塁打王にも輝いた。その後4年連続本塁打王を獲得しリーグを代表する選手に成長した。53年中西は本塁打を36本放っているが近鉄のチーム全体の本数より多かった・・近鉄はこの年チームで30本。近鉄の最多が控えの森下重好の7本で続いてライト杉山光平の5本であった・・(所詮・ピストル打線やからな・・)54年には王者・南海を破り球団初の日本シリーズに出場を果たした。自身が新人王に輝いた翌年には同じ西鉄の豊田泰光がチームから2年連続で新人王を獲得。大下弘・関口清治・等を主軸とした打線 いわゆる『流線型打線』と呼ばれ他球団から恐れられた。ベストナインにも53年から6年連続で選出された。そして1955年シーズンシーズンも終盤に差し掛かり戦後初の3冠王誕生か・・と言う状況で毎日・山内和弘との打点王争いが激しくなり1だ点差で涙をのんだ・・これにより戦後初の(※戦前1938年・巨人中島康治の3冠王が達成・・しかし本塁打10本・打点38・打率361と言う内容)3冠王はお預けとなった。この時・三原監督は奇妙な策をとっていた。。中西を休ませ代打で出場させて打点を稼がせようとして失敗・・1956年にも同僚・豊田との首位争いでまたしても休養させ豊田の首位打者が決定し3冠王を逃した・・この事で3冠王がクローズアップされた・・高卒入団2年目から4年連続で本塁打王に輝いたのは中西太だけである。この後・1965年に南海・野村克也が達成するまで『トリプル・クラウン』の称号を手にする者は現れなかった・・約80年の歴史でその称号を手にしたのはセ・パ合わせても7人だけである・・

1955年日本シリーズ 後楽園球場

『舞台は敵地後楽園・鷹の快進撃が止まらない!』

1勝1敗で迎えたシリーズ第3戦・巨人の本拠地・後楽園に舞台を移し東京のファンが大勢詰め掛けたが、あいにくの曇り空は試合開始時には雨となり観客席は傘の花で埋まった。流れを変えたい本拠地巨人が強行に開始したのだった。。雨の中安井都知事がスタンドからの始球式で第3戦の幕が上がった。この一戦を任されたのが巨人・中尾 碩志、対するホークスは宅和本司がマウンドに立った。中尾はベテラン投手で沢村賞・ノーヒットノーランを2度達成する等(四球を10個出して達成)長年に渡りチームに貢献してきた選手であった。一方・入団2年目の宅和は昨年の26勝に続き(新人王)この年も24勝を挙げ大車輪の活躍で南海のV奪還の原動力になった投手である。そんなベテラン対新人の激突に注目が集まった。両チームランナーを出すもミスや決め手を欠き3回を終わって無得点で試合が進むが4回ついに均衡が破れた・・1アウトから飯田徳治がライト前に落とすと堀井の1塁ゴロの間に2塁へ到達。続く森下がすかさずセンターへ運んで飯田が先制のホームを踏んだ。このゲームもホークスが先取点を取り試合を優位に運んだ。。5回に宅和が捕まった・・無死1・2塁でマウンドを戸川に譲り無得点に抑えた・・その後・巨人に好機が訪れず8回0-2から岡本伊三美が振り抜いた打球は線を引いた様な綺麗な弾道で上段席に吸い込まれた・・勝負ありであった・・2試合連続完封し敵地で2勝1敗とした。