1955年プロ野球よもや話その1
『スタやん・300勝達成!!』
スタやんとはロシア生まれの300勝投手・ヴィクトル・スタルヒンの事である。しかし国籍は無国籍である。ロシア革命の際、一家は革命軍に追われ命からがらシベリアを横断し国境を越えてハルビン(当時日本の支配下)に辿り着いた。大金を支払い北海道へ入国。無国籍・ロシア人となった・・恵まれた身体を活かし野球を始める。父も喫茶店を経営し順調と思われたが従業員を殺害し獄中死する。。生活が苦しくなり同級生らからのカンパに頼るなどして何とか生活をするものの日本国籍は取得できなかった。。野球で活躍し旭川では知らぬ者がいない程のスターに成長した。1934年大リーグ選抜が来日一勝も出来ない日本選抜の苦肉の策としてスタルヒンに『白羽の矢が立った‥』沢村栄治しかり当時から良いと思った選手は自分のものにしないと気が済まない球団が中退を求めた。しかし旭川の皆で甲子園に行く事を夢見ていた事を理由に参加を拒否。すると亡命し無国籍で日本に滞在している事をほのめかしソ連へ強制送還もちらつかせた・・(だから巨人は嫌いや!)後ろで糸を引いていたのは読売オーナー正力松太郎だったという・・入団を拒否すれば警視庁と繋がりが深かった正力が父親の犯罪歴と日本国籍ではない事を盾に迫ったという。。屈するしか選択はなかった・・(だから巨人は嫌いや!※2回目)東京野球倶楽部に入団。プロ野球選手としてデビューした。よく野球の中心は読売ジャイアンツにある様に言われプロ野球が出来て80周年(2014年)と言われるがその年数は巨人が出来てからの基準で(東京野球倶楽部)プロ同士で野球で観客を入れ興行をしていた球団は巨人より前からありプロ野球団としては巨人が最初ではないと言いたい。プロとして試合をしたのは『天野野球団や日本運動協会』などがあり現在存続の中では阪急(オリックス)が芝浦協会を継承し小林一三が『宝塚運動協会』を発足した。あたかも巨人がスタートで『野球の基準は巨人』と言うのは間違いである(※だから巨人は嫌いである。3回目)これも正力松太郎が大リーグの選手を日本へ呼んで野球を広めたのはワシ!向こうへ遠征させたのもワシ!』的な理由から巨人基準なのか?と思ってしまう・・『※だから巨・・もうええわ・・(笑)』話を戻し1936年球団名が『東京巨人軍』変わり入団。球は早いが制球力が無かった。1937年にはノーノー達成!1939年には年間40勝を挙げるなど(当時は42勝)活躍。入団から165試合目で100勝を達成。この記録は破られていない。190センチ・90キロの身体から投げ下ろされる速球に加えシュート・カーブ・(ドロップ)シンカーなど多彩なボールで勝ち星を重ねた。1940年には名前を『須田博』と名乗った。1944年に太平洋戦争が激化しロシア人なのに『敵性人種』とされ軟禁された。そして巨人はスタルヒンを日本野球界から追放した・・敗戦し復興のシンボルとして野球が再開し巨人が誘ってきたが拒否し巨人で可愛がってもらった『藤本定義監督』のもと『パシフィックに入団』した。この年200勝を達成している。その後、金星・高橋と渡り歩き迎えた1955年7月30日対近鉄戦で史上初の『300勝を達成』した。(※当時の記録から修正された。当時は9月4日大映戦)なんか300勝に関わるのがなんとなく近鉄が絡んでええな・・(鈴木啓示・米田哲也)300勝達成後のインタビューでは『若林さんも42までやったし、僕もまだ続けたい‥』と語っていたが同年引退。2年後に電車との事故で亡くなった。享年40歳と言う若さだった。1960年にスタルヒンの功績を讃えて『野球殿堂入り』となった。最初の選出であった。また育った北海道・旭川にはその名が刻まれた『スタルヒン球場』が今も残されている。
1955年 日本選手権シリーズ 大阪球場
『南海・シリーズ3連勝で王手!初の日本一なるか!』
昨年は3年間続けて同じカードだった東西対決・巨人対南海ではなく九州・西鉄対中日の対戦だった。この年90勝の西鉄の追撃をかわして91勝の南海がシリーズへ・・一方巨人は中日・杉下茂を攻略し昨年のリベンジを果たし独走での出場となった。両チームの先発は51年以来の対戦別所と柚木であった。51年は別所に軍配が上がっていた。始球式は中井大阪市長がメジャー式のスタンドからボールを投げてこの年のシリーズの幕が開いた。そのセカンドラウンドは4回に2-0から千葉のライト前ヒットで柏枝が生還し巨人が先制した。しかしホークスも5回裏に岡本の2塁打出塁し森下が送りバントを決めここで親分が動き『代打蔭山を指名』バッティングカウントから投じた球をスクイズしすかさず振り出しに戻した。その後両軍得点が入らず初戦から延長戦に入り迎えた10回表先頭の平井が四球で出塁・続く広岡の時に2盗し成功・・新人広岡がバントを成功しワンダウン3塁で『神様・川上』が打席に立った。敬遠策も考えられたが親分の答えは『勝負だった』1-2から宅和が投じたカーブを待ってましたと強振し打球がグングン伸びそのまま右翼スタンドへ吸い込まれた・・この後更に1点を失うが川上の2点で充分であった・・試合は4-1で巨人が先勝した。南海ファンは『あかんわ・・またやられんのか‥』と言う思いがよみがえった・・がこの年はいつもと様子が違ったシリーズとなる・・