1956年プロ野球よもや話
『釣銭なし・代打逆転サヨナラ満塁弾』
この年に取り上げたいのは野球の醍醐味『代打・逆転満塁サヨナラ本塁打』である。スポーツの魅力は『逆転』である。特に最終回に1点差でランナーを置いて 最後の最後まで手に汗握り、ゲームセットを聞くまで気が許せないあの緊張感はたまらない。。そんな土壇場・最終回に日本で最初に名を残した男がいた。巨人・樋笠一夫である。香川県出身・50年に広島入団。翌年・巨人へ移籍。3月25日対中日戦ダブルヘッダーの第一試合は大友工の好投で勝利。続く第二戦は0-3のビハインドで敗戦が濃厚な試合・・中日先発・大矢根の好投が光り完封負け寸前の9回裏の巨人の攻撃。先頭・加倉井がライト前で出塁。続く土屋も四球で出塁し1・2塁とした所で中日ベンチは投手を杉下にスイッチ。広岡が引っ掛けショートゴロ併殺かと思われたが岡嶋がこぼし無死満塁に・・好機に藤尾が三振し嫌なムードが漂ったその時・水原監督がベンチを飛び出し『代打・樋笠』のコール。マウンドに立ちはだかるは『フォークの神様・杉下茂』余談だが杉下自身・フォークボールを持ち球にしていたが投げるのは本当のピンチか巨人・川上専用のボールだったとか・・阪急山田久志もシンカーは自分が認めた選手か4番にしか投げなかったと言う・・杉下の初球を強振して空振り・・続く2球目は外れてボール。1-1からの3球目、高目の見送ればボール球を叩いた・・打球は巨人ファンが待つレフトスタンド中段まで運び・『プロ野球史上・初の代打逆転サヨナラ・満塁本塁打』を完成させた。3点ビハインドから逆転に必要とされる(また野球で一度に得点出来る最大の点数)4点がぴったりと入りスコアボードに収まった事から『釣銭なし』の名前が付けられた。命名したのは『記録の神様』と言われた 山内以九士だった。。興奮した巨人ナインはダイヤモンドを回りベンチに戻った樋笠を優勝をしたかの様な騒ぎで胴上げした・・樋笠曰く『初めから真直ぐだけを狙っていた・・初球は空振りしたが次も真直ぐだと思って思いっ切り振りました‥』と語った。。(※実際は3球目)巨人入団が30歳で主に代打の切り札として起用されてきたが翌年57年に引退した。
1956年日本シリーズ 後楽園球場 特別指定席
『遂に激突!魔術師VS勝負師・巌流島の決闘!』
三原脩と水原茂・・同じ香川出身で高校・大学とライバル関係あった二人が激突するシリーズ3部作の第一幕となった。話題が尽きない二人だがやはり『三原監督排斥騒動』である。。1949年水原はシベリア抑留から帰国し巨人へ復帰を果たしたが当時監督の三原は起用しなかった。その事でチーム内からも批判が相次ぎ球団が三原を総監督・水原を監督に就任させた。総監督の三原には仕事が無く結果退団する事になる。巨人を出た三原は1950年オフに西鉄クリッパーズに入団し監督就任に就いた。その際・チームを強くし日本シリーズで水原巨人を倒す事を誓った。1954年・球団初のリーグ優勝を果たすも相手は巨人ではなく中日であった。一方・水原巨人は2リーグ制となって6年で4度日本一に輝いていた・・そして遂にこの二人の戦いが実現したのである・・初戦は水原・巨人に軍配が上がったものの、2・3・4と戦と三原・西鉄が連勝。一気に制するかと思われたが5戦は巨人が空中戦を制し12対7で一矢を報いた。そして迎えた第6戦・・マウンドを託されたのは今シリーズ2勝の西鉄・稲尾和久・対する巨人は2敗の別所でスタートした。初回・西鉄が攻略していた別所にこの試合も襲い掛かった。1回先頭の玉造がショート内野安打で出塁するとと続く河野が一塁へセーフティを決め無死1・2塁。3番豊田の時に捕手が後逸し2・3塁に・・すかさず豊田はライト前へ運んで先制。中西は倒れるが大下弘が目の覚める様な右中間への2塁打で2者生還。別所を引きずり降ろした。堀内に交代したが勢いは止まらず続く関口もセンターオーバーを放ちこの回一気に4点をもぎ取り先発・稲尾を助けその後は岩本の本塁打のみの失点で完投勝利!遂に水原巨人を倒した。水原にとってシリーズ初の敗北であった。そして西鉄ライオンズ初の日本一であった。この後西鉄黄金時代が到来するのである。