◆選手名

196 村上隆行 ROOKIE

#196村上隆行

ROOKIECARD

思い出の猛牛戦士

近鉄在籍(1984-2000)

『スイートロマン・村上隆行』

福岡県大牟田高からドラフト3位で入団。この年はドラフト当たり年で同期には小野和議・吉井理人などがいる。大石と同じ実家は鮮魚を扱う仕事で子供の頃から新鮮な魚を食べて体が形成された。3人兄弟の長男で妹浩子さんは元実業団のバレーボール選手で現在は中村紀洋夫人である。パンチ力があり藤王(中日)岸川(南海)と比較され当時スカウトだった佐々木恭介が惚れ込み獲得した。背番号だが当初『5番』を希望したが少し早いと言う事で5の両隣の4と6を合わした『46番』に決定した。入団の際に『どんな選手になりたいですか?』の質問に対し『僕は日本シリーズで三振しないバッターになりたい』と答えた。これは佐々木恭介自身が1979年『江夏の21球』で三振に倒れ苦い思いを経験していた事からその思いを継承したのであろう。と感じた。村上は全国をまわり見つけた原石であった。入団当初は肩が強くパワーショートとして起用されたが派手なプレーも見せたがエラーも多かったのを覚えている。しかし一発長打の魅力は素晴らしく2年目の85年から5年連続で2桁本塁打をマークした。金村同様『中西道場』で指導を受け更に磨きが掛かった。背番号も念願の『5』になり師匠(佐々木)と同じ背番号を背負う事になった。この時代に歌手デビューを果たしている。金村の思い出の猛牛戦士でも紹介したが村上の場合はその歌唱力が認められ『スウィート・ロマン』でソロデビューを出している。なかなか良い歌である。『Glory~Glory~Buffaloes~♪』と甘い歌声で歌っている。89年のリーグ優勝の際の特番でもその歌唱力を披露している。歌詞はABCアナウンサー安部憲幸が手掛けている。(らしい歌詞である)肩が強い事から外野へコンバートされるが『激戦区』で87年には『新井宏昌』88年にブライアント・そして『北海の荒熊』鈴木貴久『コンコルド』淡口憲治も控えていた。出場機会も減り代打としての出場が増えた。また個人的なイメージだが『怪我が多い選手だった』しかし天性のバッティング技術は素晴らしく、ここ一番の集中力は見事であった。88年の『川崎・10.19』では8回代打で起死回生の同点タイムリーを放っている。(うまく拾って運んだ打球はそのまま行ったと思ったな・・)その後2塁ベース上で口を尖らせて手をグルグル回すしぐさは今も忘れられない・・翌年念願の日本シリーズに出場し第7戦に意地の本塁打を放っている。しかし9回巨人宮本を苦しめ2アウト2塁で村上に打席がまわり期待がかかったが藤井寺最後の日本シリーズの最後の打者となった。話が変るが私は小学生の頃から選手にサインを貰う事に命を賭けていた子供で色紙・ボール・サインペンは必ず持参し球場へ足を運んだ。サインはよく貰った反面、選手の機嫌が悪い時には怒られもした・・村上氏にも2度マジで怒られた経験がある。一度目は日生でサインを貰いに行くと『今日は駄目!いつもあげてるだろ!』と怒られた・・二度目は近鉄選手と一緒に『長島スパーランドへ行こう!』と言う企画で(大石・村上・佐々木修)が一緒に電車に乗って食事やゲームをすると言う企画で今考えるとこちらが悪くこの日2度書いて貰っていたにもかかわらず丁度彼が『パックマン』をしていて声を掛けた瞬間ゲームオーバーになり『死んじまったじゃねーか!』とえらく怒られた。半泣きだった。。でもその後、クイズで優勝すると3人の直筆サイン入りバッグが景品でもらえるイベントがあり最後まで残り最後の問題が『村上選手が有段者で資格を持っています。さて何でしょうか?』と言う問題でA・Bの選択で間違った選択をした際に優しく目で違うと教えてくれた・・結果優勝出来たのである。厳しさの中に優しさがあった・・そんな思い出がある・・引退後は解説者・監督として活躍している。いつかプロ野球界に指導者として復帰する日が来るかもしれない。