#46 野茂英雄
ROOKIE CARD
裏面
間違い易い事だが『野茂英雄90ドラフト1位』となっている。
正解は90年ではなく89年ドラフト1位である。
※ドラフト入団年月については暫く間違ったままでの記載が続く為、
説明はこのカードを最後とする。
思い出の猛牛戦士
近鉄在籍(1990-1994)
『大阪名物・回転牛投法!!』
1989年ドラフト史上初8球団から指名を受け・指名された球団へ入団する事を公言し見事地元大阪の近鉄が引き当て入団した。これにより前年度リーグ制覇を成し遂げた近鉄の連覇が期待された。当初ウェバー制で前年度リーグ優勝を果たしている近鉄はもし競争率の高い野茂を外すと外れ1位を選択する際一番最後の選択となる為、良い選手が他球団に獲られるリスクがあったが河西スカウトはギリギリまで悩んだと言う。。その時若いスカウトが『大阪の球団が大阪の子を取りに行かんでどうするんでっか!野茂をベンチに飾りましょう!』『いつも言うてはるじゃないですか、ドラフトは宝くじみたいなもんやて・・』すると河西は『そら行かんとしゃーないわな』と意見がまとまり指名した。8球団の指名があったものの『投球フォーム』についてマスコミ・評論家等が『あのフォームでは通用しない』と批判し入団後のフォーム改造に注目が集まった・・また独特の投球フォームのネーミングを募集し『大阪名物・回転牛投法』『トルネード投法』等が最終まで残った・・個人的には『大阪名物・・』が好きだった・・(でも長いなー・・)で、のちに野茂自身は『僕はあの投げ方しか出来なかったので変える事は出来なかった・・』と話した。幸い仰木監督はフォームはいじらずそのままで投げさす事を発表した。初登板はオープン戦の日ハム戦で打ち込まれた・・オープン戦の成績が良くないまま開幕を迎え4月10日ライオンズ戦で初回いきなり無死満塁で清原を迎える。この場面で清原は『こいつが野茂か・・ごっつ(大きく)見えるな・・』『何で落ちついとるんや・・』普通ベテランでも最初の登板でいきなり無死満塁やったら汗拭いたりスパイクで均したりするもんやが・・涼しい顔しとる・・『あかん、俺やられるわ』と感じたそうだ・・初球ど真ん中を見送った清原は『ボールがどこから来たか見えんかった・』と語った。(野茂との対談より)結果は三振に終わったがその後もなかなか勝てず・・仰木監督もとうとう『お前!いつになったら勝つんじゃ~』と初めて野茂を叱ったと言う。そして迎えた4月29日対オリックス『西宮球場』で伝説が始まった・・『ブルーサンダー打線』が『真っ青になった』当時新人奪三振記録を越えリーグタイ記録の17奪三振を奪って初勝利を挙げた。その後の活躍で数々の記録を塗り替え圧巻の8冠『パリーグ初の沢村賞含む』を受賞した。90年から4年連続の最多勝をマークし日本を代表する投手となった。
ここで語りたいが私はどんな近鉄ファンより近鉄愛が強いと思っている。球団消滅当初はサイトも沢山見かけたがその殆どが姿を消した・・そんな中10年以上経過してあえてサイトを立ち上げたのはかなりビークレイジーだと自分でも思う・・近鉄を1975年より応援してきたので語りたいが野茂英雄は近鉄から世界に羽ばたき誇りに思うが『メジャーで成功し美化されている部分があるな・・と感じる』近鉄ファンからすると『三振をとるがシンドイ投手だった・・』とにかく『長い・・』平均130球は投げ『2者連続フォアボール』かと思えば『2者連続三振』『清原にフォーク投げろや!』と思っても『ストレート勝負』・・で清原によると『野茂からの三振は3つ分三振取られた気分になったと話す・・それは『直球しか来ないボールを振って三振するのは屈辱的だった・・』と話した。またストレート勝負をさせたとする光山がよく監督に『お前!なに真っ直ぐばっかり投げさせとんじゃー!』『何が平成の名勝負じゃーこのばかたれ!』と怒られたとされているが光山いわく『僕のサインに対してとにかく首を横に振る』で打たれたら怒られるのは僕』これを横から見ていた金村は『2種類しか球種が無いのに何回首振るねん!(笑)』と思ったと語る。しかし野茂いわく『いやあれは、光山さんが清原さんのファンでストレートを投げさせたんですよ。。でカメラマンに僕と清原さんと光山さんのスリーショットの写真を貰ってましたから・・(笑)』一方清原は最初は直球勝負を粋に思って勝負を楽しんでいたが次第に打たれても・打たれても『ストレートを投げ込んでくる野茂が怖くなった』と語った・・これが『平成の名勝負である!』
『鈴木監督との確執』についても語りたいがここでは長くなるので野茂の最後のカード(1994年)で語っています。