#53佐々木修
ROOKIE CARD
『近鉄のサブマリン・佐々木修』
1984年近大呉工学部よりドラフト1位で 入団。この年も豊作年で吉田剛・山崎慎太郎・山下和彦・鈴木貴久等が同期にいる。大学時代は有名で鳴り物入りで入団した。近鉄での『アンダースロー』は珍しい存在だった。『サブマリン』と言えば勿論、『阪急・山田久志』となるがそれを真似て(期待して)背番号は『17』になった。子供ながらに覚えているが阪急山田に比べて『しなやかさ』はなく大柄だったので『モーションが固そうに見えた・・』1年目に初勝利を挙げるがドラ1にしては物足りなさが残った・・翌年は10.19の伏線となる1986年の『西武との死闘』の中で8勝を挙げるが後半・西武との首位争いで小野と共にスタミナ不足から失速しマウンド上で足がつるアクシデント等に見舞われた。そしてこの年不名誉な記録が達成された。当時の日本記録となる『レオ・近鉄戦35試合連続本塁打』だ・・この記録を佐々木が止めている。・・グリーンの本塁打で引き分けている。
(※1イニング6発もシバかれてたらそら記録になるわな‥)
佐々木と言えば当時『みのもんた』ナレーションの『珍プレー・好プレー』で川崎球場で3者連続本塁打を打たれその度ロッテ選手がぬいぐるみをスタンドへ投げ込み・3回とも母娘がゲットして喜ぶ場面が思い浮かぶ・・その時の投手が佐々木だった・・当時はあの場面を視聴するのが嫌だった・・86年には7月に6勝を挙げ7月には『婚約星』も挙げる等調子の良い時期もあった・・確か膝を悪くして『サイドスロー』に変えて投げていた記憶がある・・※同じ姓で『佐々木宏一郎』は逆にサイドスローからアンダースローへ転向している。。(同じ佐々木やったら背番号16にしたら良かったのに‥)スライダーやシンカーも投げていたがやはりどうしても『阪急・足立・山田』を見てきていたので、失礼だが中途半端な曲がり方だった・88年・89年と2年で2勝しかしておらず優勝には貢献出来なかったが、90年8勝・91年はキャリアハイの10勝を挙げている。野茂英雄と仲が良く試合前に一緒に『BS大リーグを投手陣で観戦したりメジャーの話をしていたと言う・・』人間関係はしっかりしており、引退後はABC放送『おはよう朝日です』スポーツキャスターを務めたり、『NOMOベースボールクラブ』の理事・オリックス・大石政権の際には『1軍投手コーチにも招へい』されている。また野茂英雄がオリックス・テクニカルデレクターに就任したのも佐々木が間に入ったとされている・・梨田昌崇の『株トゥルーマサ』に籍を置いていた事もあった・・(因みに代表は29番・加藤正樹・村上隆行・小池秀郎等も在籍)佐々木修イメージはデカくて『肩幅が異常に広い・』である。。赤いほっぺでいつもニコニコしているイメージがある。数少ない横手投げの投手であった。因みに息子の尚遥は関西Jrジュニアとして活動し同じオーディションには『ジャーニーズWEST・神山智洋』がいた。
私の子供の頃、近鉄企画の『選手とナガシマ温泉に一緒に行く』企画があり大石・村上・佐々木が一緒に電車に乗ってナガシマ温泉まで行く企画に参加した。しかし大石大二郎と言うブランドは既に全国区で近寄れず、村上隆行には怒られ(※村上RCカード参照願います)唯一優しく声を掛けてくれたのが『佐々木修』さんでした。今も思い出に残っていますな・・古き良き思い出ですわ・・ あの時はへこんでいた時に色々と話してくれておおきに!!