◆選手名

74 加藤哲郎 ROOKIE

#74加藤哲郎

ROOKIE CARD

思い出の猛牛戦士

近鉄在籍(1983-1993)

『勝率10割男は孝行息子』

1982年・宮崎日大高からドラフト1位で入団。同期入団には2位谷真一・3位佐藤純一・6位に古久保健二がいる。入団して4年間は勝ち星に恵まれず4年間で先発がたった6試合登板にもかかわらず5敗と効率のよい負けっぷりだった・・86年にはシーズン11暴投を記録している(23試合で記録)中継ぎが主な仕事場だったが88年仰木監督が就任してから先発での起用が増えた。対南海戦で初勝利を挙げた。5回1失点だった。10・19でも阿波野の後に登板し(時間が無かった為投球練習はしなかった・・)大舞台で経験を積んだ・・やはり加藤の先発と言えば1989年10・14日リーグ優勝決定戦!入団の際、『優勝決定戦で投げれる様な選手になってスカウトに恩返して孝行したい・・』と言っていた事が実現した試合だった。堂々としたピッチングで6回1/3を投げ7勝目を挙げ仰木彬が2年越しで宙に舞った。この時優勝祝賀ビールかけの際も『ビッグマウス加藤が答えている』『加藤さん・プレッシャーの懸かる試合でよく投げましたね・・』『プレッシャー?プレッシャーなんか全然感じて無かったですよ~。優勝すると思ってましたから!』と話していた・・そしてその勢いはセリーグ覇者も黙らせた・・日本シリーズ第3戦を託された。藤井寺で2連勝で東京へ乗り込み先制した近鉄が2回にも光山の大飛球がファウルになってため息が出た直後、まさかの打ち直しの『ビックリ箱』が飛び出し(※近鉄の場合捕手に良く使われた言葉だが光山にはあまり使われなかった)3点をリードした。一方加藤は速球・カーブ・フォークを織り交ぜ反撃を許さなかったが7回裏にランナーを背負い村田にスイッチし降板。。その後も継投で0封に抑えた。これで近鉄特急はノンストップで無事に『日本一』と言う終着駅へ着く予定だったが試合後に事件が起こった・・テレビ局をバックに持っているチームの強みか煽り立てる様なインタビューが行われた・・

今日の試合は如何でしたか?(加藤)『いつも~よりもーっ、ちょっとまぁ、リラックスしてた所もありますねーっ』アナ)それはどう言う所から来るんでしょう?

加藤『・・何ですかねぇ~日本シリーズ・日本シリーズって言われますけど、あんまり~っ特別~こう~かしこまったね、雰囲気って言うのは、チーム全体にも無いっすけどーっ自分でもやっぱりなんか、言ったらまぁーオープン戦の延長みたいなね、そんな大したもんかなぁ~ってね・・

この部分は明らかに『日本シリーズの舞台を踏んでみての感想』であって3連敗した巨人に対してコメントではないのである・・あとのロッテより云々はマジでヤバかったが・・

田舎球団のシーズン中でもめったにヒーローインタビューを受ける事の無い加藤が全国中継でいつもの何倍ものテレビ・カメラマン・記者に囲まれてシリーズ大手ともなれば『舞い上がって調子に乗る気持ちも分かる・・

ちなみに80年代後半~90年代の巨人はシリーズに弱かった・・87年に西武に2連敗・89年近鉄に3連敗で5連敗・・90年西武に4連敗・96年オリックスに3連敗を喫している・・シリーズ9連覇の影はもう無いのかも・・ちなみにもし(負け犬が悲しいな・・)近鉄が4連勝で終わっていたら87年2連敗・89年4連敗・90年4連敗のシリーズ10連敗と言う不名誉な記録が残ったのだが・・ちなみに巨人は日本シリーズ4連敗(スイープ)を3度経験している・・西鉄1957年・1959年南海1990年西武の3回・・逆に2002年にライオンズにリベンジしている。

話を加藤哲郎に戻し、プロ野球・通算17勝だった・・

そうそう、91年には6勝0敗でシーズンを無敗で終えたシーズンが有った・・この年は先発ではなく中継ぎで稼いだ勝ち星だったが大した物だった・・

そう言えば・・近くに『猛牛軍団2号店』が有ったなぁ・・何度か行きました・・

鉄鍋』って言う鍋が売りだったような気がする・・旧24号線の『大御門』の一角にありました。。本人に会えるかな?って思いましたが、一度も会えませんでした・・ちなみにカード裏のあだ名の『ドス』は『ドス黒い』からではないかと思う・・間違ってたらすんません・・

引退後は俳優・解説・ゴルファーを目指したり・・焼肉焼いたり・・マージャンしたり・・色々やってますがいつかは何かで『日本一になって下さい・・』応援してます・・