◆選手名

76 R・ブライアント ROOKIE

#76 R・ブライアント

ROOKIE CARD

『ミスター2ランはエディーマフィー』

1988年6月プロ野球界に衝撃が走った・・近鉄外国人リチャード・デービスが自宅で大麻栽培と所持により逮捕され退団・・急遽代わりの外国人獲得を強いられるが、リストアップする時間と入団出来る期間が迫っていた。

そんな時にファームの板東監督、佐々木恭コーチの情報を基に『中日に、三振も多いが・5試合連続して本塁打を打っている左の打者がいる』と言う情報が入り中西・仰木・権藤の3人で西宮球場へ視察に行くと中西ヘッドが『バットは天井向いとるが、何とかなるだろう・・』と言い権藤ルートにより半年間レンタルする形で入団が決定した。(金銭)当時ドラゴンズには郭・ゲーリー・が1軍にいた為、(この時代は外国人枠が2名)中日も容認したと言う経緯があった。(この年中日は優勝している)入団すると他の選手に混じって必死に練習した。『中西道場』の門下生となり、また言葉が通じ同じ左の『オグリビー』が在籍していた事などが活躍出来た大きな要因だったかも知れない・・そして見事にデービスの穴を埋める活躍をみせた。またランナーを置いての場面ではよく打ち『ミスター2ラン』と呼ばれ他球団の投手陣が恐れた。この年に川崎ダブルヘッダーがあるのだが、家族が危篤状態で帰国を考えていると記事になっていた事があった。。しかし彼は帰国せずに連戦のロードで頑張る姿を見て、『どっかの関西の外国人は帰国して戻って来んかったケドブライアントはええやっちゃ。。ずっと応援するで!』と私は言っていた。

ブライアントと言えばあの独特な構えが印象的だった。。ボックスに入ると投手から目を離さずゆっくりバットを地面からを肩に乗せ重心を後ろ置いて構え右足を大きく上げフルスイング!当たればオーバーフェンス・・外れれば三振!そんな豪快なフォームは『近鉄そのものだった』西武戦4連発等は好きな人に任せて・・ブライアントと言えば電車通勤をしていたのをご存知だろうか?(仰木彬さんも中西ヘッド退団後は電車通勤だった)何度か藤井寺駅で降りる姿を目撃した事があった。頭1つ以上出てるので直ぐにわかった。庶民的な外国人選手だったな~。あんなん南海の香川以来やったわ(チャリンコで通勤)藤井寺駅の踏み切り越えたマンションには金村住んでたしライトスタンド裏に『球友寮』があったので商店街には若手選手が普通にいた。地元密着型球団だった・・夕方になると現場帰りのニッカポッカ穿いたおっちゃんやエプロン姿のおばちゃんが応援に駆けつけガラガラのスタンドに鳴り響く『エレクトーンやメガホンの音と自軍へ野次るファンの声』が藤井寺の応援スタイルだった。ホンマ懐かしいわ泣きそうや・・(TーT)

応援歌も未だに覚えているなぁ~・・仮面ライダーV3の曲やった・・

と~ばせっ場外~🎵男ラルフの一撃~っレフトへライトへセンタ~へ~🎵

(※本当にバファローズにV3をもたらしたヒーローであった)

当時、バットをよく自分の膝で折っていた・・

チャンスや好きなコースにアジャスト出来なかった時は本人が一番悔しく思わず『やっちまった』のである・・多分、カーッとなったら調子の良いバットとか関係なく折っちゃってたんだろうな・・と思う。か、『お前が悪い!』と言わんばかりに『バットのせい』にしていたとか・・『クラックやグリップなら折れやすいが・・』まぁホームランも三振も豪快なお方でした。。。89年日本シリーズでレーガン元大統領が東京ドームに始球式で来日した際は子供の様にはしゃぎ、サインと記念撮影をねだったそうだ。。見た目のいかつさと対照的に『お茶目な一面』も持っていた。見た目で言うとハリウッド・スター『エディ・マーフィ』似ている事から『エディ』と呼ばれていた時期もあった。外国人でパリーグ本塁打王を3度以上受賞しているのはブライアント・T・ローズ(セ・パで計4度)デストラーデの3名のみである。(※両リーグでもバレンティンを含め4名)この中で近鉄に在籍した選手が2名もいるなんてなんだか誇りに思えるなーっ超近鉄目線!そう何と言われ様とここは

超・近鉄目線なサイトなんです!!

80年代後半から90年代前半に掛けて文句なしに近鉄打線を引っ張った絵に描いた様なホームランバッターだった・・彼のことは死ぬまで忘れんでしょな・・

豪快さと荒々しさはまさに近鉄の4番』ですわ・・