#91 佐野重樹
ROOKIE CARD
思い出の猛牛戦士
近鉄在籍(1991-1999)
1990年近大呉工学部よりドラフト3位で入団。同期には1位寺前・2位水口・4位柴田らがいる。近大呉工学部の先輩に佐々木修がいる。また2位水口とは同郷で高校も松山商業で共にプレーし甲子園準優勝に貢献している。新人年の91年にはいきなり中継ぎで6勝を挙げる活躍を見せた。多分この年藤井寺で彼を見た時、マウンドで投げるボールは野茂英雄よりブルペンの佐野の球の威力と言うか・重さを感じたのを覚えている。マウンド捌きも新人らしからぬ堂々としたものだった・・入団から登板機会が増え中継ぎのエースへ。左の清川らと共にリリーフ陣を支えた。持ち前の明るいキャラも受け人気者になった。オリックス戦で起きた珍事件でワインドアップで帽子が脱げ薄い頭が見え打者中嶋聡が笑って打てない事からタイムを掛けた事件である。。(※確か公式戦ではなかった様な・・違っていたらすんません佐野が振り被っている印象が無い為・・)自ら『テカテカ投法』または『ピッカリ投法』などと呼ばれた。
そして中継ぎ投手で初の『1億円プレーヤー』になった。昔なら考えられない事である・・投手は先発完投してなんぼの時代・・巨人八時半の男・宮田などが活躍していたが知名度が低かった。リリーフのパイオニアとして名を残したのはやはり江夏豊だ。速球派で打者を恐れさせたが血行障害・心臓疾患・肘痛などで成績が振るわず南海へトレードに・・当時野村監督の考えで『制球力は健在だから短いイニングでなら使える』の判断で『リリーフで起用』を江夏に打診するが猛反発し『放り出された上に今度はリリーフってどこまで恥をかかせるんや!』と断固拒否したが自宅が野村と近くで家族ぐるみの付き合いや麻雀を使っての野球理論など・・野球に対する野村の考えに共感を覚え『ムースの革命』(※ムースは野村のあだ名)を受け入れた。
話がそれたが今でこそ『セットアッパー』や『クローザー』といった分業制で投手の負担は軽くなり、より役割が明確になった。『抑え・火消し役』『リリーフ・ストッパー』等と呼ばれ今で言う『クーロザー』は評価されたが90年代前半までは先発では通用しないが短いイニングなら任せられる・・球威はないがコントロールが良い・・変則投法・・敗戦処理的な起用が多かったがそんな中・佐野が中継ぎのパイオニアとなり球界初の中継ぎ1億円を突破した。当時の新聞では渋ちん近鉄との間で交渉が難航していた記事を見た事があった。言いたい事をハッキリ言うタイプの人間だった為、成績が落ちると小池と一緒に中日へ放り出された・・この年オフの近鉄特番で外野スタンドから涙ながらに帽子を放り投げていたのを覚えている・・結局中日では1年で退団ている。その後は海外やオリックスでも投げたが2003年に引退した。引退後はメジャーリーグの解説・バラエティー等でも活躍している。金村義明氏に負けないくらいの『プロ野球漫談家』になって欲しいものである