#98 小野和義
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裏面の〈主なタイトル〉が中日小松辰雄のデータになっている。
ただし下記の年度別の成績は近鉄・小野和義の成績である
思い出の猛牛戦士
近鉄在籍( 1984ー1993 )
『エース小野・ライオンズとの死闘』
創価高校よりドラフト1位で入団。3球団による競合の末引き当てた。指名の理由のつとして『非常に努力家で・負けず嫌い』な所だった。そして左の即戦力が欲しかったのだ・・本人を見て10勝は硬いと岡本監督は思ったそうだ・・この年も近鉄はドラフトの当たり年で2位に吉井理人・3位に村上隆行・4位に光山英和・5位に安達俊也であった・・岡本伊三美監督の秘蔵っ子としてルーキーイヤーから24試合に登板し2勝・翌年に3勝を挙げているしかし負け数の方が目立った。86年に神部年男コーチが久々に近鉄に復帰。この年に小野は大ブレークする。小野和義・村田辰美・谷宏明・小山昌男・石本の活躍で西武と残り2試合まで優勝争いをしたシーズンであった。
10月6日にロッテを下し(石本40セーブ達成)0・5差で首位にたった・・当時公式戦は130試合で残り4試合で近鉄が首位に立ち近鉄が4勝0敗で優勝。西武がひとつでも落とせば近鉄は2勝2敗(5割)でも優勝だった。。しかしまさかの3連敗で10月9日西武の大逆転優勝で幕を閉じた・・実はこの悔しさが10.19へと繋がるのである。129試合目・0・5ゲームで力尽きた・・
小野はこの年フル回転で30試合登板し14勝を挙げたが若干二十歳の若者は終盤息切れが目立ち失速した・・(前半戦だけで10勝を挙げ近鉄では1977年鈴木以来の記録だった)この翌年に阿波野秀幸が入団。ダブル・サウスポーとなるが翌年も2桁勝利を挙げるも11勝11敗だった。。86年から4年連続で2桁勝利を達成するも勝率は5割で2桁勝てば2桁負けると言う投手であった・・1988年・10・15南海ホークス(なんば球場での)ホーム最終戦で先発している。そして4日後の川崎でのロッテ戦(10・19)では第一試合の先発を任された。いきなり愛甲に夕暮れのライトスタンドへ放り込まれたのを覚えている。
1989年には終盤肩を壊して登録抹消となる。しかし89年巨人との日本シリーズには登板している・・3連勝のあと、仰木監督は一気に優勝を狙い『阿波野で優勝』を考えたが権藤投手コーチが『阿波野は今年だけじゃない』自分が現役時代無理をした経験から登板の回避を訴えた・・阿波野に相談すると『まだ投げていない選手がいます・・』と話した・・小野の事であった・・常に小野は『阿波野をライバル視していた』だから阿波野は晴れの舞台に小野を立たせてあげたかったのかも・・と個人的に思った・・そして左肘に不安が残る中、先発し1回いきなり失点するも以降5回まで無失点に抑え好投するが駒田・岡崎に打たれ池上に交代した。0-5で破れ負け投手となった・・その後91年には『カムバック賞』を受賞した。で、翌年野茂を抑えて『開幕投手』を務めるが93年にトレードではなく『自由契約に』なり当時『なんでやねん!それが功労者にする事か!』と怒ったものである。その後、西武・中日と渡り引退。98年から近鉄へコーチとして復帰した。
振り被って左足でピョンと跳ね上げた足から流れる様な投球動作は綺麗なだった。よく同じ左の阿波野と比較されたが、阿波野の方が輝いていた記憶があるが成績上は小野が82勝・阿波野が75勝で現役を終えているのである・・・
太い眉毛と出っ歯が印象的であった・・『近鉄顔っだった・・』