ROOKIECARD
有田修三
近鉄在籍(1973-1985)
思い出の猛牛戦士
『鈴木啓示を復活させた男』
有田といえば梨田との『アリ・ナシコンビ』として70年-80年代に各球団に羨まれた近鉄の捕手コンビの事である。
『アリ・ナシコンビ』については『梨田ROOKIECARD』で説明しておりますので参照ください。
ここでは西本政権における有田の役割について述べたいと思う。
大エース鈴木啓示は入団2年目から5年続けて20勝を達成していたが(凄いなー高卒やから23歳で100勝越えやで・・今なら考えられんわ・・)
1972年から3年にわたり2桁は勝つも負け数の方が多くチームへの貯金を稼ぐ事が出来なかった。エースがそれではと74年から近鉄監督に就任した西本監督が、キャンプで毎日ブルペンに行き『スズ、自分の投げた球が打たれたらしゃーない』という考えは捨ててくれ!お前の『マスターベーションじゃ困る』
『負け数を減らしてくれ‥』『とにかく打たれん球を放ってくれ』と速球派から軟投派へ変える事を毎日すすめた。根気強さに負け受け入れる事になったが、バッテリー間ではリーグを代表する大エースに対して配給の組み立ては難しかった。そこでそれまで相性が良くなかった有田を監督はあえて指名。理由として強気のリードとズケズケと物言う性格を買ったのだ。
実際有田の出したサインに何度も首を振ると有田は『わかった、わかった、打たれろ打たれろ』鈴木が要求する球を投げさして打たれると『ほら見てみい!』とアピールすると鈴木の性格からして『なにくそ!』と言う気になりミットめがけて投げた。有田のリードは緩急・高低・両サイド・ボール球に手を出させるリードをし次第に鈴木のピッチングの幅が出来、こう言うリードも有りと考え引退するまでバッテリーを組んだ。
1984年5月5日の300勝達成試合は梨田がマスクを被った。鈴木が引退した事もあり85年オフに巨人へトレードに出た。バッティングも勝負強く2桁本塁打を6度達成している。ダイヤモンドグラブ賞(現在のゴールデングラブ賞)2度受賞オールスターにも2度選出されている。
コーチとしても手腕を買われ3球団を渡り歩いた。解説も的確で分かりやすい解説が人気である。