- #3 山崎 慎太郎
ROOKIE CARD
珍品発見・・・
#3カードの元の写真を発見致しましたので紹介致します。
思い出の猛牛戦士
近鉄在籍(1985-1997)
『西武キラー・山崎しんちゃん』
1984年度ドラフト3位で新宮高校より入団。この年も当たり年で1位佐々木修・2位吉田剛・4位に山下和彦・5位に鈴木貴久であった。。当時・吉田は取手二高で清原・桑田を破った事で有名だった。 初勝利は1987年と入団から3年掛かったが88年から『権藤博』投手コーチが就任。それによりシュートボールに磨きを掛け『西武キラー』の異名をとり88年には13勝を挙げた。背番号も『39』から『15』に変更された(デービスの空き番)89年当時権藤コーチが語っていたが、山崎はノーアウト・満塁のピンチでマウンドへ駆け寄ると『コーチ、大丈夫ですよ!トリプルプレーでチェンジです!』と、この状況で山崎はまるで他人事の様に言ったそうだ・・すると権藤は『バカモン!1つもアウトが取れんやつが何を言うとるか!』と叱責したそうだ。権藤の教えはコーナーへ振り分けれる技術は無いのだから『とにかく腕を振って投げればボールが適当に散ってくれる。』と言うものであった。山崎は調子に乗ればグイグイ攻め・気が乗らない時にはフォアボールで自滅し・打たれていたイメージがあった。藤井寺球場物語(朝日放送)でもこんなシーンがあった・・中森トレーナーとの会話で『山崎しんちゃん・・今日投げんかったんかいな?』『はい、あんま調子が良くなくて・・投げたらぶつけてしまいますわ・・』『ぶつけたらええねん。。で、ゴメン言うとったら・・』『今日はもう帰りますわ・・』 と言う会話が収められている。89年は9勝10敗で2年連続の2桁勝利はならなかった・・日本シリーズでは第2戦に先発し桑田と投げあい5回まで無失点に抑える(原の不調で2度好機で凡打)も6回に2死満塁から駒田に捕まりノックアウトとなった。その後打線が逆転しシリーズ2連勝となった。1994・1995と久々に2桁勝利し野茂が去った後の投手陣を支えた。しかしドームへ本拠地が移ると登板機会も減り97年オフに『FA権を行使しダイエーに移籍』その際山崎は『近鉄の全てを知っている・・』とマスコミに話している姿を見て『お前に知られても全然怖わないわ・・』と言ったのを覚えている。彼の投球フォームが印象的だった。大きく振り被り、一度左膝に両手を乗せてそこから両腕を羽ばたかせる様にして打者のタイミングをはずす投球フォームだった。。ちゃめっけタップリで笑顔が印象的だった・・最後になったが彼の名前は『ヤマザキ』ではなく『ヤマサキ』である。