◆選手名

70 中村紀洋 ROOKIE

#70 中村 紀洋

ROOKIE CARD

思い出の猛牛戦士

近鉄在籍(1992-2004)

『ホームランの打ち損ないがヒット・・』

 1991年ドラフト4位で渋谷高校より入団。同期にはドラ1高村祐・2位に江坂正明らがいた。高校時代は『公立の星』として注目を浴び・大阪桐蔭・上宮等と言った強豪高と甲子園への切符を奪い合った。桐蔭・萩原誠とはライバルとされ注目を浴びた。私が最初に中村紀洋を生で観たのは1990年日生で行われた大阪予選決勝戦だった・相手は上宮高校・・学校の帰りに決勝戦があるからちょっと寄っていこうと森之宮で降り観戦した。それまでは上宮が出よるやろう・・と思っていたがこの日初めて中村の2本の本塁打を目の当たりにして驚いたのを覚えている。一本目はレフトへ放ち二本目は外角球をバックスクリーンへ放り込んだのが今でも脳裏に焼きついている。当時の渋谷監督・長谷至康氏は『三振する勇気』を教えたと言う『アウトの中で一番格好が悪いのは三振』と思う子が多い・・そんな中で『しっかり振れ!ひ弱な人間がこちょこちょしたら余計貧弱に見える・・意識としてボールを遠くへ飛ばせ』と言う指導があった。。そして高校2年の時に『フルスイング』が開花する。この当時から『全球・本塁打狙い!』だった。。そして近鉄に入団。『あっ、この子近鉄来たんや!』と思った。大阪の子・フルスイング・顔・・近鉄としての条件は三拍子揃っていた・・(笑)金村氏は『こいつだけは近鉄来んといてくれ!』と願っていたそうだ。。自身が羽田からホットコーナーを奪った様にノリに譲る事になった。入団年には初ヒットが本塁打となり(確か南海・香川もやった・・)鮮烈なデビューを果たした。ノリ曰く当時『新人は素手で打て!』と言われバッテなして河野からレフトへ運んでいる。豪快なスイングは入団当初から健在だったがコーチにこのままだと上に行っても2割3分が良い所‥と言われ『スタイルを変えろ』と言われていたがそこに水谷コーチが就任。上半身はイイから『打球は足で打て!』を熱血指導。試合前のレフトからライトポールまでのアメリカン・ノックで下半身を鍛えた。この時の影響で軸足の太腿の筋肉がない。手首の手術を3回行いバットを振れない時期もあったが95年からコンスタントに20本以上アーチを量産し金村の穴を十分に埋める主軸として活躍し1994年には対日ハム戦でサイクル安打を達成した。

大阪ドームに移転し当初はドームでも66番で挑む予定だったが急遽石井が巨人へ移籍し背番号が『3』に変更された。そのドタバタ劇は1997年球団カレンダーで分かる。撮影時の背番号はドームユニで66番を付けている。タフィ・クラークが入団しノリも引っ張られる様に球界を代表するスラッガーに成長。バットを放り投げる姿はイキっている(※調子に乗っている・・)のではなく、3度の手術からくる負担軽減の為で今度同じ個所をやると選手生命が絶たれる可能性があった為、放り投げていた。グリップのテーピング・バット先の平面カットもそう言った工夫だった。(これはサミーソーサを手本にしたとか・・)

話が変わるが、私は長嶋茂雄の全盛期を知らない・・よく当時を知る人は長嶋はスーパースター・長嶋は凄かった・・と言う人が多い・・イチロー?足が速く・守備範囲も広く、肩も世界レベル・そしてバッティングは文句なしである。。しかしイチローと長嶋同じ国民的スターだが何かダブらない・・私の中で、ある一定の期間引き合いに出せば合致するのは『中村紀洋』だった。。同じ三塁手・4番で右打者一番似ているのは守備範囲・バッティングの勝負強さ・魅せる野球が私の中では『平成の長嶋茂雄』だった・・(あくまでプレーヤーとして)ここで一発欲しい時には何度も期待に応えてくれた事が多くあった。送球もサイドスローで軽快に捌いた。またお祭り男でもありオールスター3戦連発弾・満塁ホームラン・サヨナラ本塁打も歴代記録上位に名を残している。ゴールデングラブ賞は3塁手としては『プロ野球最多の7度』輝いている。中村は球界で唯一『グラブをバラせる選手』と自身 が話していた事がある。しかし2冠王獲得位から入団時『金太郎・バッファ君』と言われていた頃のイメージではなく『ピノッキオ』に変貌する。髭を蓄え金髪にしアウトサイダーなイメージと言動が未だに『白・黒ノリ』と言われる原因である。サインに『5』だけとか『のり』としか書かない時もあった。

2002年FA宣言しメッツ入り寸前だったが近鉄に残留する。残ってくれて嬉しかったが『ほんなら最初から宣言すんなよ』と思った。このあたりから足のケガに泣かされる事が多くなる(踵・膝等)2004年にはアテネ五輪に参加し銅メダルを獲得。本塁打は7年ぶりに20本を切る19本に終わった。そして55年の歴史に幕を閉じ海を渡った。

中村紀洋と言えばやはり豪快なフォームと一発だがイチローがブレイクした時には『あの振り子は僕が教えた』と話していた。観戦していて一番記憶に残っているのが2001年9月24日西武・松坂から放った『サヨナラ・本塁打』だった。松坂は野球人生で初めてのサヨナラ・被弾だったそうでベンチに引き上げる際は帽子を深くかぶり泣き、ベンチ裏のゴミ箱を蹴りくの字にしたと言う。その試合はタフィ・ローズが『世界の王』に年間本塁打記録に(※当時)並んだ試合でもあった。本塁打記録と言えば未だに破られていない記録がある。『王・長嶋』『清原・デストラーデ』『バース・掛布』でも達成出来なかった3・4番アベックでの年間本塁打数『101本』である。『ノリ46本・ローズ55本』で達成された。

ノリは近鉄在籍の選手で最も多い本塁打数307本』を残している。初の本塁打王に輝いた時、門田さんみたいに40超えて現役で1キロのバットを振る箏は有得ない・・ゴルファーにでもなってますわ‥と言っていたが実際門田の44歳現役には届かなかったが41歳までプレーした。中村と言えば野球場以外で活動も行っていた。2001年池田小学校で事件が起きた際には真っ先に慰問している。また球場建設する等幅広い分野でも貢献している。引退後は指導者として情熱を注いでいる。いつの日か彼のバッティング理論を継承する選手が現れる事に期待したい。中村紀洋は間違いなく『私のヒーローであった』近鉄野手ナンバーワン・プレーヤーである!