◆選手名

99 T・ローズ ROOKIE

#99 タフィ・ローズ

ROOKIECARD

思い出の猛牛戦士

近鉄在籍(1996‐2003)

『近鉄のウナギイヌ・タフィ・ローズ』

タフィを最初に見たのが藤井寺でのオープン戦だったと思うがブライアントが抜けた穴を埋められる外国人なのか?正直最初は心配であった。第一印象はタイトルにもあるが天才バカボンに登場の『ウナギイヌ』に見えた(笑)来日当初は全盛期の様にバットの位置が上段の構えではなく中段からタイミングを取っていた。丁度、町内のソフトボール大会のおっちゃんがボールにタイミングを合わせる様なキャッチャーミットの前を何度も通過させる様な半分バントの様な構え。(説明ながっ)でもバットを上段で黒のバットにしてからはウナギイヌそのものだった。※西武の秋山どころではない(笑)

公式戦で最初に衝撃を受けたのは96年5月20前後のデーゲーム(誕生日が近かったので覚えている)対西武戦で9回2アウト満塁フルカウントから満塁サヨナラ本塁打を多分・潮崎?から放った試合だった。この年は佐々木恭介監督の『ヨッシャー』をパックってヒーローインタビューで連発していた。タフィと言えばアメリカでもサラブレットで幼馴染にはケン・グリフィーJrおりカブスではサミーソーサと一緒にプレーした経験がある。94年の開幕戦にはあのドクターK・ドワイト・グッデンから3打席連続の本塁打を放ち知名度が上がった。しかし本人曰く『あの3発で本来左右に打ち分けるバッティングスタイルを見失ってしまった・・』と語った。3連発を含めメジャー6年間で16本しかアーチを生んでいない。メジャーでは期待外れの烙印が押されていた時に近鉄からのオファーがありこのチャンスを活かして出来るだけ日本で長くプレーし日本で野球人生を終えよう・・と・・だから日本文化に触れ少しでも早く溶け込もうと努力した。その甲斐もあり1年目から2割9分3厘・27本塁打・97打点と初年度から活躍を見せた。

翌年も打率を3割に乗せこの年も期待に応え99年には初のタイトル(本塁打王・打点王の2冠)を獲得した。この頃はローズ・クラーク・中村紀がクリーンアップを固めて打撃面ではリーグでもトップクラスであった。しかしローズは気が短く退場も多かった。なんと合計14回!ダントツの1位である。。あとタフィと言えば髪型である。来日当初は『小学生並みのタフィ坊主(ボーズ)』だったが『ドレッドヘア』『アフロ※不評』もあった。日本語も堪能で時には通訳を介さず先に喋りだす事もあった。ある試合後の風景をご紹介したいのだがタフィはバイクで球場入りしていた頃、『あっローズや!』と思った瞬間、バイクから降り近くにいた子供を抱き上げ写真とサインに応えている紳士的な(神対応)対応を見た瞬間、『こいつはタダモンでないなーっ』と感じた。。

そして迎えた2001年9月24日その時が訪れた。。5回裏・松坂大輔から放ったあたりはライトへ吸い込まれた。バットを真上に放り投げ前かがみになって両脇をしめて拳を固めた姿が印象的だった。この後ノリのサヨナラ本塁打で近鉄にマジック2が点灯し優勝へ大きく前進し2日後、同じ大阪ドームで梨田監督が宙を舞った。これまで、バース・Tローズ・カブレラと56号の壁に阻まれたがその度出てきたフレーズが『王さんの記録』だった。。55号を放った日のインタビューでは55号は王さんの記録・でも56号を打てば僕の記録になる・・と・・』

しかし9月30日この日1番に入ったローズに対して若菜コーチが『ランナーがいない場合は全部歩かせろ!』『ONは日本の宝。監督の下で働く者が簡単に打たれたら失礼なんだ』『王さんの記録をいつ帰るかわからない外国人に打たせる訳にいかない‥俺たちが王さんの気持ちを配慮しないと・・』と言い敬遠を支持したと言われている。その際捕手の城島が打席のローズに『ごめんな‥』と謝ったそうだ・・タフィが憤慨した理由として試合前に王監督から僕の記録を抜いて欲しい』と言われたにもかかわらずフェアじゃない‥』『記録をそのまま誰にも抜かれたくないならそのまま残せばいい』と語った。この一件に対し多くのプロ野球ファンから批判が殺到しコミッショナーから厳重注意がダイエーに言い渡された。王監督自身は『何も指示はしていない』『三十数年前も昔の話についてどうのこうのない‥』と話している。偶然だが海の向こうではこの日イチローがジョージャクソンの持つ新人最多安打を90年振りに更新した日でもあった・・(242安打)

大阪ドームに戻りタフィが対戦相手のオリックス投手陣に真っ向勝負をお願いする姿がみられオリックス投手陣も勝負をしてくれたがフェンスを越える事は無かった

その後ヤクルト・バレンティンが気持ち良く一気に60号まで伸ばしてくれた・・ピッチャーの200勝の壁はが高く難しい時代・350・400勝はさすがに無理だが、もしかして868号を超える打者が出現するかも知れない・・(※張本勲の3085安打もイチローが抜き去ったように・・)

王貞治(1959-1980)ファンの方には申し訳ないが当時は後楽園の両翼スタンドは87・8メートルしかなく80年まで圧縮バットを使用していた(※翌81年より禁止)現代と違いフォーシーム・ツーシーム等の動く球も無く変化球も少ない時代。当時のセリーグ球団捕手は王さんにインコースは攻めれなかった・・と語った。。『だって世界の王にぶつけて怪我をさせたら大変‥』『足を上げて打つし‥』なので真ん中より外を待てば比較的・的を絞れたようだ・・とは言ってもプロに入って1本のホームランを打たずに去る選手が多い中868本も結果を残した事には脱帽である。

話を戻して・・通算本塁打成績が(巨人・オリックス含)464本(※近鉄のみでは288本)来日外国人1位・打点・安打数はA・ラミレスに次いで2位の記録である。(※ローズの方が出場試合数が70試合少ない)

タフィ・ローズは近鉄だけではなく日本プロ野球界に名を残すプレーヤである。そんな素晴らしい選手が近鉄に在籍していた事は自慢出来るし私がこの世を去るまで忘れないだろう・・